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2008/01/23・24・25



今回の旅の第二の訪問先・太宰府は、わが国の歴史を学ぶ上で、欠かす事の出来ない土地です。
畿内を地盤とするヤマト政権が外交や軍事行動の要衝として、出先機関を設置した土地です。
唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦い(663年)における敗北を契機として、畿内政権の出先機関
が此の地に移転し、664年(天智天皇4年)8月、筑紫に水を貯めるために大きな堤水城・小水城や、
大宰府の背後には大野城、前面に基肄城などの城堡が建設されたとされています。
また、菅原道真公の左遷の地として、広く知られています。


太宰府天満宮
学問の神として親しまれている菅原道真公を 祀っています。 901年(延喜元)、右大臣から
突然大宰府の役人に落とされた道真は、2年後にこの地で亡くなりその墓の上に建てられた
のが太宰府天満宮です。現在の本殿(重要文化財)は1591年(天正19)に小早川隆景により
再興されたものです。


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天神様として崇められている菅原道真公は845年に生まれ、幼少の頃から神童の誉れ高く、
学問・書・詩文に多くの業績を残しました。
右大臣まで栄進しましたが、901年1月藤原時平の中傷で太宰府に左遷させられました。
道真公の配所生活は左遷というより流刑に近い処遇でしたが没後20年の923年に醍醐天皇
により元の位に復され、さらに993年には一条天皇から太政大臣を贈られました。


菅原道真を素材に近松門左衛門の『天神記』をさらに発展させた浄瑠璃に「菅原伝授手習鑑」があります。
菅原伝授手習鑑は竹田出雲・並木千柳・三好松洛の三名による合作で人形浄瑠璃として書かれたものが
歌舞伎になった義太夫狂言で
義経千本桜仮名手本忠臣蔵・と共に日本戯曲三代名作の一つに数えられます。

お芝居のあらすじは、
平安時代・菅丞相(菅原道真)は左大臣藤原時平の陰謀により、大宰府へ流罪となります。
それを巡って、菅家に仕える家柄に生まれた三つ子の兄弟、
梅王丸松王丸桜丸が活躍。
梅王丸は菅丞相の、桜丸は斎世親王の舎人、松王丸は丞相の政敵時平の舎人です。
桜丸は、丞相流罪の原因をつくったことを悔やみ自害。松王丸は最後に、丞相の跡取りで
ある1人息子の身代りとして、わが子を差し出し、菅家への恩義を果たします。
やがて、時平は滅び、丞相は
天神さんとして祀られるという筋立てです。

もっと詳しくは・・・の、それぞれをクリックして下さい。
 | 序幕 | 2幕目 | 3幕目 | 4幕目 | 5幕目 | 6幕目 | 7幕目 | 8幕目 | 大詰 |



飛梅
(とびうめ)
 
♪東風吹かば においおこせよ梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ
道真公が大宰府へ西下の時、京の
紅梅殿の梅にこの歌を詠まれると、梅花は、はるばると
御アトを慕って配所大宰府の菅公のもとに飛んできました。それが、
「飛梅伝説」です。
御本殿の右前の御神木『飛梅』は千有余年たった今日も毎年神苑で最初の清香の花を咲か
せ「飛梅さま」と愛されています。

飛んだのは紅梅でしたが、代替わりを経て、現在、太宰府天満宮境内にある飛び梅は白梅になっています。




天神さんの牛

菅原道真と牛との関係は深く、「道真の
出生年は丑年である」・「道真が亡くなったのが丑の月の丑の日
「大宰府への左遷時に
牛が道真を泣いて見送った」・「道真には牛がよくなつき道真もまた牛を愛育した
「道真は
牛に乗り大宰府へ下った」・「牛が刺客から道真を守った」・「道真の墓所の位置は 牛が決めた
など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在します。
しかし、なぜ「臥牛」ばかりなのか?、立った牛はなぜ居ない?。
私の知る限り、天神さんの牛は全部・お座りになっていらっしゃいますよ。


(麒麟)麒麟はこの場所で結界を引いて本殿を守っているとも言われています。またトーマス・グラバー氏が
      この麒麟の像を大変気に入り、何度も鑑賞に訪れました。そのことからグラバー氏が設立に関わった
      「キリンビール」の社名になったという説もあります。

(鷽像)1月7日、一年中の嘘を天神様の誠心と取り替えていただく鷽替え神事縁の鳥で、幸運を運ぶ天満宮
      の守り鳥でもあります。



(筆塚) 菅公は書道の神様として信仰されていました。筆塚は使い終えた筆を感謝して納める場所です。
七夕輝毫会の表彰式の日、筆塚祭が行われます。ここで筆を納めると書道が上達するといわれています。

(梅干の種・納め所) 梅の種の中には天神様が宿るという言い伝えがあります梅の種を粗末に扱わな
い様に食べた後はきれいに洗って干した種が奉納されています
その種は天満宮で手厚く奉納するそうです。


(厄晴れ・ひょうたん)太宰府の梅の木下で「ひょうたん酒」を飲めば不思議と厄が晴れるとの信仰が
ありました。悪い厄をひょうたんが吸い取ってくれるとも言われています。本殿の裏にはそんな厄を吸い取っ
て奉納された「厄払いひょうたん」が沢山下がっていました。



梅の蕾は今だ固く、天満宮境内では数本のみが・・・チラホラ咲きでございました。




昼食
は天満宮境内の本殿裏・・・照星館でいただきました。



梅が枝餅

道真公が不遇の配所時代に困窮した生活を送っているのを近在の尼さんが見かねて
道真公が好んだ梅の枝に添えて焼餅を差し上げたという故事に由来するものです。
                                       ( 尼さんでなく、老婆とする説もあります。)
宮の参道には、この梅が枝餅のお店が軒を連ねて、何処が元祖で、何処が本家やら…




うそ

うそというのは、うそつきではなく、鳥のうそのことです。
天満宮では、このうそにちなんだ「
うそかえ神事」というものがあります。
太宰府天満宮のうそかえ神事というのは、木でつくった鳥の「ウソ」をハンカチ落としの要領で
みんなで交換しあいます。最後に自分に残った木うその下に書いてある番号により
(金のうそ)
が当たり、これが当たったかたは今年一年幸せになれる、といった行事です。



太宰府の町は
梅ずくし・・・バス停も「梅大路」、マンホールの柄も梅だらけです。
梅には関係ないですが、珍しい…苗字の表札を見つけました。名前を「長寿」とつけたくなります。




観世音寺

観世音寺は天智天皇が母の斉明天皇の冥福を祈り、80年の歳月をかけて天平18年(746)に
建立した勅願寺で、天平の創建時には七堂伽藍を配した大寺院でした。
大宰府政庁域の東に接して創建されていたので「
府大寺」と称されており、天平宝字5年(761)
には境内に戒壇院が置かれ、西日本随一の寺院と言われていました。
現在は江戸時代初めに再建された本堂(講堂)と金堂が残るだけで、境内にある梵鐘は、西暦
681年に筑前国糟屋郡多々良で鋳造された日本最古の梵鐘で
国宝になっています。
また、大きさ形状がそっくりの京都・妙心寺の梵鐘と兄弟鐘と いわれていて、この梵鐘の音は
「日本音百景」のひとつにもなっています。




月山東地区官衙




太宰府展示館
太宰府政庁跡
太宰府展示館では、出土品や模型を使って大宰府の歴史をわかりやすく紹介しています。
館内で説明を受けた後、隣接する太宰府政庁跡

都府楼跡の名で親しまれている太宰府政庁跡は、古代に九州全体を治める役所「大宰府」
が置かれていた跡です。7世紀の後半から奈良・平安時代を通して九州を治めるとともに、
わが国の西の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきました。
現在も史跡の中心部分には当時の建物の大きさをしのばせる数多くの礎石が遺り、門や回廊、
周辺の役所などが平面復元され、史跡公園として整備されています。




筑前国分寺跡

奈良時代の中ごろの741年(天平13)2月、聖武天皇は「国分寺造営の詔」を発し、全国に
国分寺・国分尼寺を建て、都には大仏を作り、仏に守られた豊かな国を築こうとしました。
筑前国分寺もその一つで、現在は塔跡や講堂跡の見事な礎石に昔を偲ぶことができます。




水城跡

博多の方から太宰府に入ってまもなくすると、木立に覆われた土手が福岡平野を横切り、
山の裾野へと続いているのが見えます。664年(天智3)唐と新羅の攻撃に備えて築かれ
た防衛施設「水城」です。 その規模は全長約1.2km、基底部の幅80m、高さ10mを越え、
すべて人の手で築かれた人工の土塁(土の堤防)です。海側(博多側)には幅60m、深さ
4mの堀が造られ水を貯えていたとされ、それが「水城」の名の由縁となっています。

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太宰府探訪

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